archivist_kyoto の雑記帳

ネタを考えるための雑記帳です。 NO HUG NO LIFE

高等教育と自律

 

今朝なんとなくつぶやいたことの、長い補足

僕はTLの諸氏とはなんかの縁で関わった以上、信頼せざるを得ない、という立場だけど、この数年の経験で、ハグに頼る種類の人間には、どうもテキストのコミュニケーションって難しいらしい(要するに考えている背景に比してテキストでの説明が足りてないらしい)、と感じ入っているので、 今朝の件、ちょっとだけ補足。

まず、大前提として、僕は人類の個々人への情報環境の保障は、社会全体で互いに分担しながら担保されるべきだし、不十分ならその調達をそれぞれで要求し合い、工夫すべきだという立場です(ここに外部を設定しないのがミソなんだけど、そこは大丈夫ですよね?)。

これは、歴史学でも資料情報の公開で闘争して、アーカイブズや図書館やデジタルアーカイブに、仕事の守備範囲を明らかに超えて関わっていることとも関連していますが、たぶん特殊にそういう立ち位置です(ここでは個人にかかる社会資本の話に触れてないのもわかりますよね?)。特に、初等・中等教育ではそうであるべきだと思う。

ただ、高等教育機関においては様相がちょっと異なっていて、社会全体での解決の追求と、学生・院生の各自への覚悟を迫ることは、両立します。自分が独立した学習者・研究者たらんとするときに、その学生・院生が社会制度を使いこなし、要求していく、というのは非常に重要です。でも足らずの隙間は必ず生まれる。そこに、自分の生活の何をどれだけ削って、どれ程を投資できるか、というのは自律の問題です。

言い換えれば、高等教育の根幹は、社会の「分担」の範囲に、どう個々人として参加するか、を考えさせる、ということ。投資先への観点で言えば、自分に関わる分野をどう支えるか、という心性の陶冶につながる。

こんな平凡なことは活発に議論されている諸氏は十分承知の上だと思うけど、積極的な「教育的配慮」として、環境整備と情報収集にお金や時間を投じるということは自律の問題だ、という観点から、個々の学習者・研究者(そして言わずもがなですが「専門職」にも)に折に触れて迫って欲しい。

で、一方で高等教育機関の意思決定にそれぞれが少しでも関わる存在として、社会全体からの同意と投資の調達にますます尽力してほしい。僕も自分の持ち場ではそうします。今回の投稿はそういうごく単純で明快な話です。