archivist_kyoto の雑記帳

ネタを考えるための雑記帳です。 NO HUG NO LIFE

街歩き事業への京都市明細図の活用について

www.arc.ritsumei.ac.jp

で、通訳をお願いして30分ほどでしゃべるための原稿。せっかくなので上げときます。
スライド公開されたらリンク張るです(思い出して貼った)。

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街歩き事業への京都市明細図の活用について
“The utilization of Kyoto city maps (Kyoto-shi Meisai-zu) for walk-around project”

【導入】

 ディスカッションの前の、本日の最後の報告になりました。みなさん、充実したプレゼンテーションを沢山聞かれて、気持ちも高ぶっていると思いますし、また、お疲れだとも思います。ですので、この報告は気楽に、クールダウンのために聞いていただければと思います。地図資料と街歩きの幸運な出会いの物語です。

 

【本日の主題】

私がお話しするのは、デジタライゼーションされた地図が、みなさんがまさにいらっしゃっているこの都市、京都の街歩きに十分に活用されている、という事例報告になります。本日のテーマに引き付ければ、地図がweb公開されたあとの活用事例の紹介となります。

この京都は魅力的な街ですが、魅力的であるからこそ、観光に訪れる人々のみならず、住まっている人々、深く関係している人々でも、一面的なイメージを持ちがちです。

大きな寺院や神社、伝統工芸や茶道などに代表される日本独特の古くからの生活様式を良く残している、などが、日本の古都、伝統的な日本の象徴である「京都」の主要なイメージでしょう。

だが、実際に150万の人々が生活している現代都市京都は、まさに本日取り上げる京都市明細図が成立した1920年代から1950年代に、その基盤が形成されました。

その意味で、京都市明細図は「ありきたりの京都」ではない、まさに現代都市である京都を、生活に寄り添って歩くのにふさわしい素材なのです。

 

京都市明細図とは】

さて、京都市明細図とはどのようなものでしょうか?

1927年に大日本聯合火災保険協会という保険会社の組合が、保険料率の計算のために作成したものです。この時期から世界中の都市で作成された火災保険図(fire insurance map)の一種になります。作成時の京都市域を286区域に分割して作成されています。一枚の縮尺は1200分の1で、その大きさは、ほぼ38cm×54cmです。

現在、この京都市明細図は3セット確認されています。本日おいでの京都府アーカイブである京都学・歴彩館が所蔵しているもの、京都の古くて大きな住宅である長谷川家が所蔵しているもの、こちらも本日おいでで京都市アーカイブである京都市歴史資料館が所蔵しているもの、の3セットです。このうち、京都学・歴彩館と長谷川家のものはデジタル化されて、「近代京都オーバーレイマップ」に搭載されています。

 本日特に取り上げるのは、京都学・歴彩館のものです。以前の施設名称で、京都府立総合資料館版とも呼ばれています。なぜこれに注目するのか。京都学・歴彩館を先ほど京都府アーカイブと申しました。この版には京都府の担当者が都市政策のために利用したと思われる痕跡があるのです。

そのほとんどは、第二次世界大戦後、日本がまだ占領下にあった1950~1951年に集中していると考えられます。少し、実際に確認してみましょう。

 この、赤は商業施設です。緑は住宅。茶色は学校などの公共施設、黄色は寺院や神社などの宗教施設。このように手書きではありますが非常にビジュアルです。さらに商業施設などについては書き込みがあります。また建物の階数もこのように1、2などの数字で書き込まれています。

 また、この1950年1951年というのは、現代京都の起点になった時期です。

日本の主要都市は1945年3月以降、空襲でほぼ壊滅しましたが、大規模軍事拠点であった広島が1945年8月6日までほぼ無傷であったように、京都はアメリカの原子爆弾の標的とされていたために、第二次世界大戦中、大きな爆撃は受けませんでした。しかし、1944年以降、来るべき空襲に備え、延焼を防ぐために建物を取り壊していました。最終的に2万戸が取り壊されることになります。戦後、これらの跡地をどうするか、そして、軍隊という非常に大きな社会装置を失った日本がどのように再建をしていくか、という意味で、この時期は現代都市京都の基盤が作られた時期なのです。

 これらの跡地は、現在も使われている大きな幹線道路や公園になりますが、この書き込みがあった時期は、まさにその検討時期にあたります。

なお、われわれが今いるのは西の端のここですね。当時は畑ばかりだったようです。

 

【まいまい京都とは】

さて、ここから報告のもうひとつの要素、街歩きのプロジェクトについて説明します。京都での街歩きのプロジェクト、行政や旅行会社が行っているものは沢山ありますが、最大のものは民間団体が行っている「まいまい京都」というプロジェクトです。

「まいまい」とは「うろうろする」という意味の京都の言葉です。15人程度の小規模で京都のなかの狭い地域を2時間から3時間程度で歩きます。

2011年3月に開始され、2017年12月までで、2,559回、41,806人が参加した、という実績を持っています。そしてガイドとなったのは346人となります。当初は京都の街の住人がガイドをするというのがコンセプトでしたが、2012年・2013年ぐらいから研究者の参加が増えました。今日のこのワークショップの参加者にもガイド経験者や参加者がいるかもしれません。

コースの内容は非常に多様です。街の方が案内する地域の暮らしや風習を対象にしたもの、わずかな土地の高さ低さにこだわったもの、建物や土木建築にこだわったもの、などです。共通しているのは、どのコースでも地図は重要な要素になっていることです。なにしろ空間を移動するわけですから。

参加者層で興味深い点が2つあります。ひとつは、30パーセントほどの登録者が、東京などわざわざ京都に旅行しないと参加できない地域の方で占められていることです。実際にお話しを聞く機会がありましたが、本当にわざわざ京都においでになって、このツアーに、2日で4コース参加される方などがいらっしゃいます。また、70パーセントほどの方が、ひとりで参加されています。家族や知人と一緒に楽しむことに主眼があるというよりは、街を歩くこと自体を目的とされているのです。この2点から、最初に述べた「ありきたりの京都」に飽きてしまって、京都をより深く、多面的に知りたい人々が参加者層となっていることがわかります。

 

【スピーカーの経験】

私はこの「まいまい京都」に2012年10月から、ガイドとして13回参加し、この3月にも2回ガイドする予定です。実をいうとこの報告の準備のために数えなおしてみて、「こんなにやってるのか」、とびっくりしました。そのほとんどが京都市明細図を全面的に活用したものです。

先ほどご説明した京都市明細図は2010年秋に私が担当して公開し、2011年春には立命館大学地理学研究室によってデジタル化を行いました。それから1年ぐらいたって、ガイドの依頼があったということになります。

 私のコースは、「京都市明細図」を知ってもらうため、ということに主眼を置いたものです。今は「【京都市明細図】研究者と巡る、京都市明細図に描かれた占領下の京都~あのファッションビルが米軍司令部!繁華街に残る闇市のなごり~」というコース名になっています。

 例えば、このコースは、京都の街の繁華街のど真ん中を歩くコースにしています。四条烏丸という京都の中心を起点に北東に歩いていきます。占領軍司令部跡、占領軍が作った図書館、証券街の跡、戦争中に建物を撤去したあとにできた公園、昭和初期に建てられた小学校、戦後に闇市となった通り、そして最後は市役所です。参加者には最低限の解説をつけた京都市明細図のコピーを配り、またタブレットなどでデジタル画像も見せ参加者も自らのデバイスでデジタル画像を参照しつつ、私がポイントポイントを説明し、2時間程度で歩きます。最終的には、京都市明細図の性格とその魅力を知っていただく、というのを目標にしています。

このコースに限りませんが、この街歩きプロジェクトは、ガイド側に地図の読みを深めることを求めます。先ほど、「証券街の跡」と言いました。現在は大きなデパートがあり、その周辺に飲食店がならんでいる四条烏丸の北東部は、20世紀初頭から後半まで、京都における証券取引の中心地でした。一般的な知識として、この区域がそのような性格をもっていたことは知っていましたが、当初、2012年から2014年ぐらいまで、ここの説明はごく簡単に行っていました。この説明に私自身、納得がいっていませんでした。京都市明細図を見せながらでも、「昔はここは証券街だったのですよ」という平板なものになっていると感じていたからです。そして、参加者からのアンケートで、ここの場面に触れたものはありませんでした。

しかし、2015年のコースを準備する段階で、普段は人が通らない、少し入り込んだデパートのトラックヤードの前に「京はま稲荷」という小さな神社があることに気が付いたとき、ストーリーを大きく展開することができました。

「稲荷」とは、いまや世界的な観光名所になった「伏見稲荷」と同様に、商業に関係する神とされています。そして「京」は京都の京、「はま」は大阪で証券取引をする場所が「北浜」と言っていたことから来ています。つまり「京都の証券取引関係者がその商業的成功を祈る場所」という意味です。実際に現在もこの神社はそのような方々によって、証券会社の多くが京都を離れたあとも守られています。

この「京はま稲荷」をコースに組み込み説明を施すことで、流れの中で周辺の小規模な証券会社に貸し出すために建てられ、今は別の用途に使われている建築や、いまも残る証券ビルを説明することができるようになりました。そして、地域のイメージも重層的に提示することができるようになりました。そして参加者からのこの部分への反応も、確かに多くなりました。証券街から飲食街へ、という変化、そしてその中に象徴的な痕跡が残っている、というのが心に残るようです。

 また、「ありきたりの京都」に飽きてしまっている方々が多いので、参加者からのフィードバックも非常に高度で貴重です。質問を受けて、次回の説明に活かすということは幾度となくありました。

この京都市明細図、他のガイドたちも活用しています。デジタル化してwebで公開しているうえに、クリエイティブコモンズライセンスを適用し、CC BYを宣言しているため、自由に利用いただいています。例えば、こちらなどはかなり自由に改変して使っている事例です。

 

【まとめ】

 この京都市明細図、作成から70年たち、もう古地図の一種といえるでしょう。今回報告した街歩きへの活用以外にも、都市計画研究、近代建築研究、花街研究などにひろく活用され、いまや、京都研究の基礎資料となっています。

街歩きと地図の幸運な出会いの物語は以上です。今後もその出会いは広く深くなっていくでしょう。ご清聴、ありがとうございました。