30年目のご挨拶
口上
ええと、今年も、
慶應義塾大学文学部准教授*1/東京大学大学院情報学環客員准教授*2
であります*3。
なので、特に環境が変わるということもないのですが、これまでの振り返りと一応の抱負を書き付けておこうかと。
なお、
広い意味でのアーカイブズを、デジタルや制度からのアプローチで考えていくことになります。そこには文化資源から考えるMLAの課題や人材の話なども絡んでくるでしょう。 また、「長尾構想を僕たちの世代で受け継いでいく」という、たまにいってる本音とも密接につながる
心機一転のご挨拶 - archivist_kyoto の雑記帳
と書いて3年、
図書館どまんなかのことではなく、情報教育をしっかり行いながら、デジタルアーカイブやMLA連携の立場からいろいろ考えてみろ、ということだと捉えて、これまでの延長線上で、また大胆に柔軟に議論を組み立てていければ
心機一転のご挨拶2021 - archivist_kyoto の雑記帳
とも書いてから1年、それぞれ経過しましたが、課題は追求中です。
そして今現在もたくさん書かないといけないものがあるのです*4。その意味で、完全に逃避でもあります*5。
慶應義塾大学文学部で1年
ともかくも1年、大きな事故も起こさずにすごせました。
図書館・情報学専攻の教員・院生・学生のみなさんには感謝以外ありません。
比喩でなく、右も左もわからない状況で、いろいろ至らない発言ばかりしてますのに、みなさんに温かく?見守っていただいてます。
嬉しくて、たまにあの長い暗い廊下をスキップしたくなったりしてますが、まだ抑えてます。
もっとも、図書館情報学のど真ん中は、僕にとってはある意味新しい世界で、その厚みにいろいろ苦闘しているところがあります。ただ、周囲の環境や慶應の図書館のすごみも相まって、情報がある意味自然に入ってきてます。
さらに、いくつかフィールドらしきものを持てるようになって、いろいろご迷惑おかけしながらですが、考える梃子を獲得しつつあります。
つまりは、考える素材は圧倒的に手に入ってきてます。あとは料理の腕ですね。
それを対象の地域にも、図書館情報学にも、さらに博物館学やアーカイブズ、もちろんデジタルアーカイブにもお返ししていきたい。
一方、もともとの出自の分野では*6、この1年は本当にその体質と考え方にげんなりした面があります。
もうちょっと真面目に物事を考えないと、本当に分野が消滅しても、誰にも惜しまれない可能性さえある、という一種の焦りがあります。もっとも変革の契機はいろんなところにあります。可能性は感じるので、もう少し粘ってみるつもりでおります。
大学入学から30年
そして、先週ぐらいに気がついたのですが、なんと今年で大学入学から30年となりました。僕の場合、学士・修士・博士が別々の大学なので、指導教員も3名いますが、みなさんもちろん退職されました。というか、一番年長である修士の指導教員だった井口和起さんが、昨日ようやく福知山大学学長を退任されたので、本当にみなさん一応ご退職、ということに。
また、講義を受けた方々もほとんどがご退職されています。これも2月に気がついたのですが、受講した当時は留学先から戻られたばかりでぴちぴちの若手だったポーランド史の小山哲さんが60を越えてたのにひきました。
退職と年齢の話をしたのは、もちろん自分自身の先のことを流石に考えるようになってきたからです。周りでバタバタ病気になっている人が増えてきましたし、僕もいつまでも若いつもりですが、明らかに無理は利きません。
そして、学部・修士・博士、その後の友人たちは、それぞれステージを異にしながらも奮闘しています。これは刺激を受けつつ見習いたいところ。
これからどうしていくか
かと言っても、生物として先が見えて来てます。
しかし、まだ心も関心もふらふらしています。
いまのポジションも有期ですし。
ただ、以下のエントリーに書いたように、およそ文化資本を欠いた出自を持つ者としては、社会の平準化のため、みなが可能性を保持し続けられるための装置として、図書館・博物館などの社会施設とデジタルアーカイブについてしつこく考えて行きます。
そのなかで、自ずと発想もポジションが変化していくでしょう。
あまり自身のことには戦略的になれないので、次々ころがってくる機会を捕まえつつ、偶然の先に何かを獲得できれば。
そして、なによりも、〈正しいこと〉を持ち場でも、持ち場を越えても主張して行くしかないんだとより確信を深めてます。出来ることってそれぐらいでしょう。
で、その〈正しいこと〉が正しいことと確信を持てるように、日々省察を繰り返すのでしょう。労働的に物事を処理せず、活動を主にする存在となるために。
おそらく1年後になるであろう、次の記事の時には、どういうことになっていますか。本人はまったくわかってません。
乞うご期待、であります。
心機一転のご挨拶2021
この度、2年間、特任准教授としてお世話になった、
図書館・情報学系 図書館・情報学専攻 准教授(有期)
に転籍することになりました*1。
東京大学でのポジションが、寄付講座の年限の関係で当初から2021年10月いっぱいと決まっていたため、みなさんにご心配いただいてました。今回、ご縁あって、早期にではありますが、転籍することになったものです。
もっとも、前所属のみなさまのご厚意で、
慶應義塾大学では、全学対応の情報教育の初級・中級段階とリテラシー教育・デジタルアーカイブ論の一部を担当します。また、もちろん、図書館・情報学専攻の活動に参加することになります。
なお、同志社大学・専修大学・和歌山大学・東京大学・京都工芸繊維大学に、デジタルアーカイブや博物館情報・メディア論、歴史学を出講することになっております。
図書館情報学の本山みたいなところに、図書館のことがまったくわかってない僕が行ってどうするのか、という不安が、僕にも、恐らくみなさんにもあると思います*3。
期待されているのは、図書館どまんなかのことではなく、情報教育をしっかり行いながら、デジタルアーカイブやMLA連携の立場からいろいろ考えてみろ、ということだと捉えて、これまでの延長線上で、また大胆に柔軟に議論を組み立てていければと存じます。
なお、2年前、地方公務員から大学教員に転職した際に、以下のようなエントリーを書いてました。
そのなかで、概ね以下のようなことを目標としていました。
・広い意味でのアーカイブズを、デジタルや制度からのアプローチで考えていく
・長尾構想を僕たちの世代で受け継いでいく
・ダメそうなアイデアを恐れず出す
・その場のにぎやかし要員
・関西への積極出没
この1年、コロナ禍でかなり思うに任せず、僕の状況も万全とはいえず、という状態で、なかなか構想してたように仕事を組み立てられてませんでした。
ただ、2018年秋ぐらいから考えていたことが、「図書館機能の再定置」という形で少しずつなにか形が出来てきたように存じます。
この発想を大事にして、めげずに頑張ってまいりたく。
なおなお、御大のおひとりに報告した時に、「いよいよ中央の人ですね」などとお言葉いただきましたが、ますます「関西の野党的気分のなかで自己形成してきた自覚」を忘れないように活動したいと考えます。
有期教員ですので、まだ関西に自宅を置いてます。その上で、従来からの文京区西片の下宿と往復する生活になります*4。
ですので、関西の方々、お見忘れなきように。
まずは、取り急ぎのご報告までで。
みなさんには、本当にご指導ご鞭撻を伏してお願いするところです。
また、リアルにバーチャルにお目にかかります。
フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』(2017)についてのメモ
前口上
そりゃ、本郷の住人になれば岩波ホールにも行ってみようと思うわけで、行く以上はこれを見るしかないとなり、映画の性質上、暗闇の中でもメモを取ることになり、そのままでは全く読めないので、整理してたら(しようと思って友人に話したら)ブログで出しとけ、ということになって、そのまま出してます*1。
もいっこあるとすれば、3時間25分+休憩10分という長時間を使ったもとを取りたい、というのもあります*2。
ということで、ネタバレ上等/でも1回見ただけの闇鍋メモなので、以降は、これから情報遮断で映画を見ようと思ってる人、NYPLの確実な情報が欲しいと思ってる人、には不向きです。
また、映画を構造的に見るとかしないし、ワイズマンのもわずかしか見てないし、このために改めて情報を集めるとかしてない*3ので、かなり見当はずれです。ということで突っ込み歓迎。もちろん作法通り「カチン」と反応する場合もあります。
なお、読んでいただく大前提として、日本の図書館関係者が全員読んでることになってる、以下を抑えている上でってことになってます*4 。
前提
上記の菅谷本のほかには、そりゃまあ以下などを。
この「『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』 公開記念パネルディスカッション ニューヨーク公共図書館と<図書館の未来>」という企画、会場におりました。で、メモもとったけど、このレポートで十分ですね。非常にヒントがあって、あとでも触れます。
なおなお、ちょっと見てるて、今の勤務先に関わる以下も発見。
この段階ではまったく外部者だったんですが、ちらちら動向は知ってて、そうね、この通りに行っててもよかったよね、というちょっとつらい気持ちになったところでした。
見る心得
体力と気力いります。あと座席は最前列でも全然大丈夫。なんなら端っこでも。なぜなら、非常に広い舞台の奥にスクリーンがあるから。なぜにと言うと、ここいらを参照。戦後のハイカルチャーの発信地でござい。
ということで、映画館じゃなくて戦後型文化ホールとすると、特段に静かに映画見ろ、という体になります。勢い、食事は禁止、開始後の入場も禁止。腹ごしらえして、時間に余裕を持って行きましょう*5。
なお、パンフ購入は必須です。僕はよっぽどでないかぎり、図録とパンフは買う主義者、かつ今回は上記の4月のイベントでもらってたのですが、今回は図書館関係者には特に必須。絶対にあとで必要になります。あと、購入は開始前でも開始後でもよいけど、本当に映画の内容を頭に入れたいなら、開始前にパンフのストーリーの部分だけでもを読んどいた方が良いと思う。
では、メモ起こし。もちろん情報を最小限捕捉して、言葉は足してます。なおなお、以下で、S1とか書いてあるのは、パンフのストーリーの説明順と対応してます。
メモ起こし
S1 ドーキンスの講演。最初にこれ持ってくるのは科学の館の宣言だろうか。本館のエントランスですよね。これ。
S2 人定の質問が多い。そして、一瞬、利用者がスマホで資料撮影するところが印象的。
S3 さっそくの資金集めの活動場面。民間資金と公的資金の好循環を目指す。21世紀を生きるためのネットの重要性。その目標に民間寄付でなにが可能か、世界に見せよう。
S4 最初の分館の場面。画面は全員ボランティアという把握だけどよい?
S5 奴隷制に分析について研究者が語る。ちょっと極端な主張にも思うがそのまま流す。
S6 ホールのコンサート
S7 ブロンクスの就職WS。消防局ここにきて、楽な仕事もあるよ、とか言ってる。911の話もするのかもだけど、そこは切り取ってない。あと陸軍いた。建築とか起業とか、そのためのPC講座とか。まあ本気での展開。
S8 幹部会議。トレーラーに出てた象徴的なやつ。映画全体の基調にも連動する会議で、分館は教育施設に全振りする方針が議論されてる。
S9 ピクチャーライブラリの場面。学生に向かって、アーティストはみんな使ってきた、と。デジタルマイクロだー
S10 デリがユダヤ街のハブになるよという話
S11 ここでエルビス・コステロ登場。むっさサッチャーを攻撃中
S12 再び幹部会。社会の在り方を構想し、そのためのデジタルデバイドをなんとかしましょう、と熱くプレゼン。予算配分についての注釈的な意見はつくが、面白い。
S13 エントランスのコマンヤーカ。
S14 分館で、チャイニーズの中高年にPCの基礎的操作をレク。
S15+S16 点字の読み方のレクなど。市全体の施策の一部としてのと分館における障碍者対応が強調されているか?
S17 分館新築のためのスタッフ説明会。建築家が理念語る場面は僕もスタッフとして立ち会ったことがある。
S18 演奏会。
S20 読書会。
S24 みたび幹部会。社会の在り方を構想し、そのためのデジタルデバイドをなんとかしましょう、と熱くプレゼン。予算配分についての注釈的な意見はつくが、面白い。
S25 舞台芸術図書館での手話通訳者へのレク。感情をどう表すかでカジュアルに憲法登場。
S26 デジタル撮影の現場。これ内製かなあ。あと、返却本の振り分けの場面が非常に印象的。ものすごく粗い扱いで、非常に長いベルトコンベヤに振り分けて、バーコード読ませて、送るべき分館に自動で振り分けてる。本がコンテナのなかで、ページ開けて斜めになってる部分も映る。この粗さは、向こうを見てる友人によると普通、とのことだけど、マジに消耗品ですね。これ。
S27 分館の10代に如何に来てもらうか会議。本館から幹部が来てる。会話から実績出してる数学プラグラムの中心人物はボランティアだと思ったけど、どうかな?
S28 見た人に評判のモバイルルーター貸し出しの場面。しかし、実際は超アメリカの役所っぽくて、みんな狭いカウンター前で大行列してて、でも手続き担当は一人かつ、人あしらいもまあ粗い粗い(笑)。その点、S24の熱い幹部会議との対比になってるかも。
S29 おどる老人。
S30 分館の子供向けイノベーションラボ。単純なモジュールによるロボット操作。まあでも大騒ぎですよ。狭い空間を巧みに撮ってる。
S31 Schomburg Center for Research in Black Culture の90周年パーティ。キュレーター、アーキビスト、ライブラリアン、スタッフという謝辞があっって、デジタル化やって文化残すし発信するでってところに感じ入った。そうっすよね。
S32 子供の歌の次が、
S33 バーグコレクションをためつすがめつする研究者たち。
S34 幹部会。ホームレス対策。市民としての観点で、館長はまあそこは理想論を言う。普段は距離が遠いから気にならない、図書館は近くなるからみんな気にする。さすれば、普段の距離が、街の文化が課題では、と。
S35 版画コレクション。
S36 スタッフミーティング。中堅幹部?が、スタッフに行政ミーティングや地域コミュニティへの参加によって図書館の重要性を訴えて、とあおる。セクションや分館で普段は分断されているけど、同じ仕事、全体を見ろ!と。みんなの力で達成してきてる、もう少し、と。
S37 ナボコフのきわどいシーンをハンサムが甘い声で録音してる画面ながなが続き、切り替わって、車いすのスタッフが大量の録音テープに発注票を次々挟んでほおり投げてるシーン。テープの扱いが荒い粗い。シークエンスの中での対比。
S38 分館での専門的なレク。リンカーンとフィッツヒューが登場して話が展開。そしてマルクスの問題が軸になる。これ、大学の講義でも十分ですよね。すげー。
S39 ハロウィンのパレードが挟まったあと。ホールイベントでパティスミス。
S40 分館の修理についてまた熱く語る施設担当者。予算の限り直す。
S41 幹部会。e-bookへの殺到が始まっている状況が描写される。そして社会的使命のためか、人気のためか、という資料選択の議論がここでも。社会的使命だろっと館長が言い切る。そうでないといけない。一方、子供用・教育用資料はS8の会議の方針に基づいて買うことに。
S42+S43+S44 ボードの会議。準備から。NYPLにとって非常に重要であることが強調される構成。
S45 ホールの講演。激賞されるマルコムX。会場からちょっと失笑もあった気がする。
S46 次の年に向けての幹部会議。政治的メッセージこそ重要、というごくまっとうな議論が。
S47 分館のスタッフと住民の対話。教師が堂々と教科書批判をするという。マグロウヒル社のは許せんらしい。これはかじ取りが大変な状況だと思ったけど、本館からのスタッフ?はさすがにまとめてきてた。
S48 ホールの対話。創作に対する心得がピックアップされて、映画の主張にも塚がっているかのような。そこからの映画のテーマ曲になってるコルドベルク変奏曲へのつなぎがかっこいい。
全体への注釈
以下は、全体を通じた気付きを、当日のメモから拾ってきて再構成したもの。こっちはもとのメモにかなり書き込んでる。
〇構成
研究図書館、幹部会議、講演会やコンサート、分館の状況、という4つのセクションが、交互に登場していく構成。
そして、上記のようになんとなくシーンごとにメモ取れたのには訳がある。シークエンスの切り替えに街の情景や館内の引きの絵が入る。だから変わるんだな、ってのがナレーションとかなくてもわかる。そしてそこで印象的なのは、本館で写真を撮る観光客がこれでもか、と出てくること。なんだろう、本館の象徴性なのか、なんなのか。まあ、この切り替えの場面が映画が長い原因でもあるんだけど、考えをまとめ、次に身構えるには良い長さかも。
〇音声
非常にクリアなのも特徴。見てると録音機材が会議テーブルのど真ん中にちらちらある。そうかといって、そして彼らが如何にはっきり話すといってもかな印象的。たぶん、これは意図的にいじっているんじゃなかろうか。すごく意味がある編集。
〇書架と書庫
書庫がまったく映らん。そして開架書架にもフォーカスしない。
これは非常に面白かった。ワイズマンはたぶん、本の在り方そのものはこの映画では描いてない。図書館をめぐる人と集まりと活動に絞ってる。
物理の資料が映るのって、利用シーンか(これは非常に多い)、貴重なものが丁寧に扱われてるか、モノ的に粗くスタッフが扱っているところだけ。
〇訳語
気になったのは2個。
political leader が単に〈政治家〉になってたのは気になる。ここで登場する語感だと〈有力者〉ぐらいでもよかったかも。
physical books? も〈紙の本〉なんだけど、物体が問題さ、って感じだったので、もう〈ものとしての本〉ぐらいでもよかったかも。なんか紙の本って日本語世界だと妙に神聖化されてて、理解が及ぶかどうか。
いや映画の翻訳が特段に難しいのは承知してますし、僕の英語力は0なのでなんともですが。
おわりに
ということで、多くのみなさんが気が付いていることもあるよね、と思いながら、重複を恐れずメモを起こしてみた。
その上で、何よりも留意したいは、撮影が2015年秋だったこと。
NYPLの最新の状況では決してないのです。これは、上記のイベントでウェルチ氏が強調されていたことろで、もうフィジカルかeかみたいな議論は終わってて、ともかく情報を最大限の手段で提供するのだと。一方で、トランプへの助走の状況ともいえるわけで。
普段はまったくしない、映画のメモなどを投げてみました。なんかの参考になればと。
ところで、あなたの理想の社会ってどんな社会ですか?
*1:あと前の勤務先のイベント支援の意味もある。僕は当日おりませんが、まあ担当者が奮闘してるので。
*2:試写会のご案内もいただいていたんですが、行ってみたら満席で断念ということもあった復讐でもあるw。
*3:だって当日のメモの起こし中心だから。
*4:恥ずかしながら、僕は遅くて(そりゃその時は図書館関係者じゃないしね)、2012年2月の段階で読んでるようです。
なんか違う人宛になってるけどありがとう。助かる助かる RT @egamiday: …こういうことかな。http://t.co/i2uAGd1B: 未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書): 菅谷 明子: 本 http://t.co/pILE9s5x
— FUKUSIMA,Yukihiro (@archivist_kyoto) February 19, 2012
*5:チケットの一種の不便さもこの論理で多少は理解できるかと。単館系ってまあこのパターンが多いような気がしますが。
心機一転のご挨拶
わざわざこんなwebの辺境?までおいでいただく方の何割かはすでにご存じかもですが*1、この度、14年間籍をおいた京都府職員を無事に馘首になり、
東京大学大学院 情報学環 特任准教授
として着任しました*2。
寄附講座での2年7ヶ月というごく短い任期ですが、せっかくの機会を活かすべく決断しました*3。
こちらでは、DNP学術電子コンテンツ研究寄付講座に席をおきます。
職務的にはこの講座の活動のうち、「学術電子コンテンツ活用およびデジタルアーカイブ構築に関わる制度基盤整備」あたりを中心にやることになるのかと。
つまりは、広い意味でのアーカイブズを、デジタルや制度からのアプローチで考えていくことになります。そこには文化資源から考えるMLAの課題や人材の話なども絡んでくるでしょう。
また、「長尾構想を僕たちの世代で受け継いでいく」という、たまにいってる本音とも密接につながると思っています*4。
非常に流動的な立場ですが、デジタルアーカイブを正面に捉えたポストとして業界的には貴重だという自覚があります。短期間でもしっかり成果を出して、社会的にも個人的にも次につなげられるよう、頑張りたいと存じます。
ただ、なにもかもに力足らずで、何かにつけみなさまに頼ってばかりになるのは目に見えています。ここまで読んだ諸賢にはもうあきらめていただいて、僕からのお願い事やダメそうなアイデアにしっかりお付き合いください。
また、必要に応じて是非お使い立てください。中身はなんともならんでも、その場にいればにぎやかしにだけはなることは、これまた諸賢がよくご存じだと思います。
そして、関西、特に京都でお世話になってる方々へ。
普段まったく言わないですが、関西と京都が僕にとってのホームフィールドだと思っています。
そう思って、この20年以上、僕は関西を中心に活動してきました。特に、京都は街角で偶然知人に出会える街。そして、出会ったときにすぐに大事な話が出来る街です*5。そういう京都が僕は好きです。そして関西の野党的気分のなかで自己形成してきた自覚があります。
任期との兼ね合いや、やり残したこともあり、この2年7ヶ月は生活拠点を東西に置いての往復生活になると存じます。つまり関西に積極的に出没したいです。お見捨てなきよう、是非いろいろとお申し付けください。
まずは、ご報告まででした。
みなさんには、ますますのご鞭撻をお願いするところです。
また、各所でお目にかかります。
*1:というか、こんなに人事情報が事前に駄々洩れでよいのかと。いろいろ思惑あってではあるんですが…
*2:1日に東京におれず、いま辞令もらってきました。採用予定証明書は下宿を借りる関係もあって、早めにもらってましたが、退職願(手書き!)を早々出してたので、上記の駄々洩れのこともあってヒヤヒヤしました…
*3:任期は2021年10月31日までです。つまり東京オリンピックの狂騒を、そのど真ん中で体験することになるという…
*4:最近では文化勲章受賞祝賀会で、酔っぱらってた上に不意打ちで挨拶させられた時に、せっぱつまってご本人を目の前にして申しました。しかし長尾さんは覚えておられない気がするので命拾いしました
*5:その意味では大きな田舎だとは思います
僕のための宣言
普段あまりこういう個人的なことは考えないし、考えてても誰にも言わない。だけど、12月半ばにちょっと思うことがあって、つらつらと書きつけてたのを、少し修正して投稿。
まあむりやりこじつければ、正月が誕生日で一年の宣言的なもの?がしやすい、というのと、節目の年齢を迎えた、というのと、実家でいろいろ感じ入ったことがあった、というのがある。
誰のタメにもならない話だけど、ひとつの個人史として。
僕には家産も家名も家職も、ついでに文化資本もない。
所有できてるのは、 本当にこの肉体と精神だけ*1。
もともと僕の親族は、母方も父方も四国の山間を拠点としていた。
今もその多くが、本当の意味での限界集落に、その当事者として生活している。
両親が、教員・医者・公務員、あるいは、それなりの企業に勤めてる親族がいる、とかが今の僕の周りには多いのだけど、まったくそうではない。
親族それぞれと話をすると、みな個性豊かで賢明なのだが、ともかく本当に宮本常一が描いたような生活から出発して、いろいろ展開があって今に至っている。
そこから街に出てきたベビーブーマーの両親は、肉体労働を伴う賃労働者(カラーの色は水色な感じ。小企業の、ザ・営業。)とパートの主婦という70年代のモデルのような夫婦。そして子供がうまれ、核家族を形成した。
本当に何も基盤なく、労働力のみを武器とし、わずかな資産を獲得しようと奮闘していた。
借家暮らしで*2、街の狭い範囲で18歳までに6箇所も引っ越しし(すごい)、最後にようやく一戸建を手に入れた*3。
そんな状況だから、家にある本は企業小説と歴史小説が少しばかり。自由に本を買うなんて、とてもじゃない、できない。今も残ってる数冊の子供向けの本は、よっぽど選んで買ってくれたのだと思う。中学生になっても、本は基本立ち読みするか、人から貰うか、借りるものだった時期が続く。
ただ、幼年期に本を読んでくれたし、買えないからこそ図書館を使う習慣はつけてくれた*4。
あと、周囲の金銭的な負担や煩わしさが僕自身にはかからないように配慮してくれたおかげで、自分の始末だけを考えればよいように整えてくれた(これは今もそうかも)。
そして、多大な配慮と巧みな誘導で、地元ではその当時数校もなかった大学受験が可能な中高一貫校に行かせてくれた。
系統的に学習することが苦手で、興味あることしかできない僕のその時期の試験の成績は、それは手ひどいものだった。そして成績悪いのに関係ない本読んでる、という時点で、孤立してた。
その後、何とか地元から離れた別の地方の国立大学に潜り込み、そこで歴史学や資料の面白さに本格的に目覚めることになる。
良い教員や良い仲間に恵まれたおかげと、学生時代の途中にバブル崩壊の直撃を受けて、先をあまり考えず関西に出てきて、長い入院生活に突入する。
大学院に入れたのは、もちろん重点化の初期にあたってて、ともかくも頭数をかき集めていた時期だから。そして、院生たちもまだ楽天的に夢を描いていた。
そのあと悪戦苦闘が続き、20代後半にはかなり道に迷ってた。
明るく迷ってたけど、客観的に振り返ったらかなり恐ろしい状況だった。
30代はじめになって、縁があって、定期的に出勤し、しかも社会保障がある、という場を得た。それで、なんとか身を持ち崩すことなく踏みとどまった*5。それでも未だにいろいろグダグダなんだけど。
このあたりで一歩踏み外すと、僕も彼のように、廃止される研究室にこもって火を放ってたかもしれない。本当にそう思う*6。
ともかく僕は、両親が日本の深部から出てきたベビーブーマーの一典型であるように、ほんとの意味の地方都市*7から大都市に出てきた第2次ベビーブーマーのひとりなんだろう。文化資本がまったくないという点もかえって典型度が増すと思う。
そう、第2次ベビーブーマー真っ只中。
つまり、有史以来の日本社会のなかで、同学年の人間が一番に多い世代。そしてロストジェネレーションの先頭。
今後、どの場所に行き、どの立場になろうとも、物事の縮小過程のあらゆる困難や軋轢に巻き込まれることが確定している。そして、少し長生きできたとしても、碌でもないことになることも見えている。
それでもなんとか通常の生活をできるだけの体力があることに感謝したい。そしてその上で、表面上はごく普通にふるまえてる上に(ですよね?)、ジェンダーは男性でもあるため、それなりのアドバンテージを得てることも知っている。
じゃあ、出来ることはなんだろう。
出自と世代という所与の条件の中で、そして今までの紆余曲折から得たわずかな力で、何が可能かを考えてる。
少しだけの利点があるとすれば、生活の場所も、社会的な環境も、そして職能も、望んだわけじゃないけど、変化し続けているということじゃないだろうか。悲しいことに、ほんとうに見えない世界がたくさんあるんだけど、僕にしか見えない世界がある気がする。
それを信じて、反転して、攻勢を企んでいきたい。
日常をこなしながら、小さな楽しみを見つけながら、友人たちと議論しながら。
*1:そりゃ、まだ権利の半分も得ていない狭い部屋と、そこに詰め込まれた紙束と、宵を越せないような現金と、いくばくかの積み立てがあるにはあるが、資産とは言いにくい。
*2:今振り返るとネタにしかならないような間取りばかり。賃料安かったと思う。
*3:その直後、片親は見当識を失くすような病を数年間患った末に、僕が20代半ばの時に亡くなった。もっとも僕はその闘病の後半期は進学のため離れてて、同居や介護の本当の苦労は知らない。
*4:あ、本や図書館というのは、要するに、1970~90年代には時間軸も空間軸も異なる他の世界を知るためのツールとして、圧倒的に有効であったということだけです。地方都市のろくに旅行もできない家庭にはそれしかなかったわけです。映画やコンサートや演劇とかほぼ行った記憶ないし。
*5:超朝方にはこのとき変えました。遅刻怖いからね遅刻。最低限な自律からのスタートで、なんとも情けないけど。
*6:なお、奨学金は高校からドクターまで借りた。日本育英会(現:学生支援機構)と県の育英協会のを並行して借りたりしたので、最終的に1000万を超えた。大借金ではあるが、これがなければ教育を受けることは出来なかった。まあみなさんご指摘のように学生ローンにすぎないので返済しなければ、なのですが。ともかく緩めの審査で貸し付けてくれるのはありがたいこと。これは個人に選択肢を増やし、ひいては社会を活性化させる、もっとも有効な社会政策だと思うところです。
現代思想2018年12月号 特集=図書館の未来 に関するメモ
はじめに
全体への註釈
岡本
p.9:初手に丸山もってくるのは、彼こそ戦後民主主義の子かもしれん、と思わされた。あ、自分で「伝統的」言うとるな
猪谷・鎌倉
嶋田
新
高橋
小川
鈴木
川崎
岡
中村
今井
呑海
鎌倉
長尾
高野
街歩き事業への京都市明細図の活用について
で、通訳をお願いして30分ほどでしゃべるための原稿。せっかくなので上げときます。
スライド公開されたらリンク張るです(思い出して貼った)。
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街歩き事業への京都市明細図の活用について
“The utilization of Kyoto city maps (Kyoto-shi Meisai-zu) for walk-around project”
【導入】
ディスカッションの前の、本日の最後の報告になりました。みなさん、充実したプレゼンテーションを沢山聞かれて、気持ちも高ぶっていると思いますし、また、お疲れだとも思います。ですので、この報告は気楽に、クールダウンのために聞いていただければと思います。地図資料と街歩きの幸運な出会いの物語です。
【本日の主題】
私がお話しするのは、デジタライゼーションされた地図が、みなさんがまさにいらっしゃっているこの都市、京都の街歩きに十分に活用されている、という事例報告になります。本日のテーマに引き付ければ、地図がweb公開されたあとの活用事例の紹介となります。
この京都は魅力的な街ですが、魅力的であるからこそ、観光に訪れる人々のみならず、住まっている人々、深く関係している人々でも、一面的なイメージを持ちがちです。
大きな寺院や神社、伝統工芸や茶道などに代表される日本独特の古くからの生活様式を良く残している、などが、日本の古都、伝統的な日本の象徴である「京都」の主要なイメージでしょう。
だが、実際に150万の人々が生活している現代都市京都は、まさに本日取り上げる京都市明細図が成立した1920年代から1950年代に、その基盤が形成されました。
その意味で、京都市明細図は「ありきたりの京都」ではない、まさに現代都市である京都を、生活に寄り添って歩くのにふさわしい素材なのです。
【京都市明細図とは】
さて、京都市明細図とはどのようなものでしょうか?
1927年に大日本聯合火災保険協会という保険会社の組合が、保険料率の計算のために作成したものです。この時期から世界中の都市で作成された火災保険図(fire insurance map)の一種になります。作成時の京都市域を286区域に分割して作成されています。一枚の縮尺は1200分の1で、その大きさは、ほぼ38cm×54cmです。
現在、この京都市明細図は3セット確認されています。本日おいでの京都府のアーカイブである京都学・歴彩館が所蔵しているもの、京都の古くて大きな住宅である長谷川家が所蔵しているもの、こちらも本日おいでで京都市のアーカイブである京都市歴史資料館が所蔵しているもの、の3セットです。このうち、京都学・歴彩館と長谷川家のものはデジタル化されて、「近代京都オーバーレイマップ」に搭載されています。
本日特に取り上げるのは、京都学・歴彩館のものです。以前の施設名称で、京都府立総合資料館版とも呼ばれています。なぜこれに注目するのか。京都学・歴彩館を先ほど京都府のアーカイブと申しました。この版には京都府の担当者が都市政策のために利用したと思われる痕跡があるのです。
そのほとんどは、第二次世界大戦後、日本がまだ占領下にあった1950~1951年に集中していると考えられます。少し、実際に確認してみましょう。
この、赤は商業施設です。緑は住宅。茶色は学校などの公共施設、黄色は寺院や神社などの宗教施設。このように手書きではありますが非常にビジュアルです。さらに商業施設などについては書き込みがあります。また建物の階数もこのように1、2などの数字で書き込まれています。
また、この1950年1951年というのは、現代京都の起点になった時期です。
日本の主要都市は1945年3月以降、空襲でほぼ壊滅しましたが、大規模軍事拠点であった広島が1945年8月6日までほぼ無傷であったように、京都はアメリカの原子爆弾の標的とされていたために、第二次世界大戦中、大きな爆撃は受けませんでした。しかし、1944年以降、来るべき空襲に備え、延焼を防ぐために建物を取り壊していました。最終的に2万戸が取り壊されることになります。戦後、これらの跡地をどうするか、そして、軍隊という非常に大きな社会装置を失った日本がどのように再建をしていくか、という意味で、この時期は現代都市京都の基盤が作られた時期なのです。
これらの跡地は、現在も使われている大きな幹線道路や公園になりますが、この書き込みがあった時期は、まさにその検討時期にあたります。
なお、われわれが今いるのは西の端のここですね。当時は畑ばかりだったようです。
【まいまい京都とは】
さて、ここから報告のもうひとつの要素、街歩きのプロジェクトについて説明します。京都での街歩きのプロジェクト、行政や旅行会社が行っているものは沢山ありますが、最大のものは民間団体が行っている「まいまい京都」というプロジェクトです。
「まいまい」とは「うろうろする」という意味の京都の言葉です。15人程度の小規模で京都のなかの狭い地域を2時間から3時間程度で歩きます。
2011年3月に開始され、2017年12月までで、2,559回、41,806人が参加した、という実績を持っています。そしてガイドとなったのは346人となります。当初は京都の街の住人がガイドをするというのがコンセプトでしたが、2012年・2013年ぐらいから研究者の参加が増えました。今日のこのワークショップの参加者にもガイド経験者や参加者がいるかもしれません。
コースの内容は非常に多様です。街の方が案内する地域の暮らしや風習を対象にしたもの、わずかな土地の高さ低さにこだわったもの、建物や土木建築にこだわったもの、などです。共通しているのは、どのコースでも地図は重要な要素になっていることです。なにしろ空間を移動するわけですから。
参加者層で興味深い点が2つあります。ひとつは、30パーセントほどの登録者が、東京などわざわざ京都に旅行しないと参加できない地域の方で占められていることです。実際にお話しを聞く機会がありましたが、本当にわざわざ京都においでになって、このツアーに、2日で4コース参加される方などがいらっしゃいます。また、70パーセントほどの方が、ひとりで参加されています。家族や知人と一緒に楽しむことに主眼があるというよりは、街を歩くこと自体を目的とされているのです。この2点から、最初に述べた「ありきたりの京都」に飽きてしまって、京都をより深く、多面的に知りたい人々が参加者層となっていることがわかります。
【スピーカーの経験】
私はこの「まいまい京都」に2012年10月から、ガイドとして13回参加し、この3月にも2回ガイドする予定です。実をいうとこの報告の準備のために数えなおしてみて、「こんなにやってるのか」、とびっくりしました。そのほとんどが京都市明細図を全面的に活用したものです。
先ほどご説明した京都市明細図は2010年秋に私が担当して公開し、2011年春には立命館大学地理学研究室によってデジタル化を行いました。それから1年ぐらいたって、ガイドの依頼があったということになります。
私のコースは、「京都市明細図」を知ってもらうため、ということに主眼を置いたものです。今は「【京都市明細図】研究者と巡る、京都市明細図に描かれた占領下の京都~あのファッションビルが米軍司令部!繁華街に残る闇市のなごり~」というコース名になっています。
例えば、このコースは、京都の街の繁華街のど真ん中を歩くコースにしています。四条烏丸という京都の中心を起点に北東に歩いていきます。占領軍司令部跡、占領軍が作った図書館、証券街の跡、戦争中に建物を撤去したあとにできた公園、昭和初期に建てられた小学校、戦後に闇市となった通り、そして最後は市役所です。参加者には最低限の解説をつけた京都市明細図のコピーを配り、またタブレットなどでデジタル画像も見せ参加者も自らのデバイスでデジタル画像を参照しつつ、私がポイントポイントを説明し、2時間程度で歩きます。最終的には、京都市明細図の性格とその魅力を知っていただく、というのを目標にしています。
このコースに限りませんが、この街歩きプロジェクトは、ガイド側に地図の読みを深めることを求めます。先ほど、「証券街の跡」と言いました。現在は大きなデパートがあり、その周辺に飲食店がならんでいる四条烏丸の北東部は、20世紀初頭から後半まで、京都における証券取引の中心地でした。一般的な知識として、この区域がそのような性格をもっていたことは知っていましたが、当初、2012年から2014年ぐらいまで、ここの説明はごく簡単に行っていました。この説明に私自身、納得がいっていませんでした。京都市明細図を見せながらでも、「昔はここは証券街だったのですよ」という平板なものになっていると感じていたからです。そして、参加者からのアンケートで、ここの場面に触れたものはありませんでした。
しかし、2015年のコースを準備する段階で、普段は人が通らない、少し入り込んだデパートのトラックヤードの前に「京はま稲荷」という小さな神社があることに気が付いたとき、ストーリーを大きく展開することができました。
「稲荷」とは、いまや世界的な観光名所になった「伏見稲荷」と同様に、商業に関係する神とされています。そして「京」は京都の京、「はま」は大阪で証券取引をする場所が「北浜」と言っていたことから来ています。つまり「京都の証券取引関係者がその商業的成功を祈る場所」という意味です。実際に現在もこの神社はそのような方々によって、証券会社の多くが京都を離れたあとも守られています。
この「京はま稲荷」をコースに組み込み説明を施すことで、流れの中で周辺の小規模な証券会社に貸し出すために建てられ、今は別の用途に使われている建築や、いまも残る証券ビルを説明することができるようになりました。そして、地域のイメージも重層的に提示することができるようになりました。そして参加者からのこの部分への反応も、確かに多くなりました。証券街から飲食街へ、という変化、そしてその中に象徴的な痕跡が残っている、というのが心に残るようです。
また、「ありきたりの京都」に飽きてしまっている方々が多いので、参加者からのフィードバックも非常に高度で貴重です。質問を受けて、次回の説明に活かすということは幾度となくありました。
この京都市明細図、他のガイドたちも活用しています。デジタル化してwebで公開しているうえに、クリエイティブコモンズライセンスを適用し、CC BYを宣言しているため、自由に利用いただいています。例えば、こちらなどはかなり自由に改変して使っている事例です。
【まとめ】
この京都市明細図、作成から70年たち、もう古地図の一種といえるでしょう。今回報告した街歩きへの活用以外にも、都市計画研究、近代建築研究、花街研究などにひろく活用され、いまや、京都研究の基礎資料となっています。
街歩きと地図の幸運な出会いの物語は以上です。今後もその出会いは広く深くなっていくでしょう。ご清聴、ありがとうございました。